刑場に集まった人々の歓声が一層高鳴った瞬間。
ダン。
断頭台のギロチンの刃がまさに落下し、胴体から切り取られた男の首が鞠玉の様に跳ね、地面に転がった。
「なんて──なんて事だ」
一人の男が群集の中、うめく様に呟いた。
男は年の頃は30代半ば、長身に膝下までの薄茶色のマントをまとい、長い褐色の髪と精悍な顔の下半分を真深くに被ったマントの帽子から覗かせている。
その背後に立つ二人の男も同じなマントを羽おり、一様に顔に苦渋を浮かべ、凍りついた様に凄惨な光景に見入っている。
跳ねられた首が拾い上げられ、観衆によく見える様に棒の先端に吊るされ高く抱え上げられると、男はとうとう正視に耐え切れず、顔をそむけた。
と、そこへ背後から近ずいてきた別の男が男に耳打ちする。
「何?」
男は鋭く視線を巡らせ、一方を見ながら頷いた。
「なる程」
それから群集の中を縫う様にそちらの方へ歩いてゆく。
男が目指す先には、ローブを着た小柄な老人と、一人の若者が立っていた。
男の気配を察知して、先に老人が振り返った。その視線を受けて男が問いかける。
「賢者ルペスですね」
「いかにも」
老人が答えると同時に、四人の男が素早く彼を取り囲んだ。
「なんだ居ないの?」
果たしていらえはなく、書庫に老賢者はいなかった。アルディナはがっかりしながら室内を見回した。
「居ないみたいですね」
「どこへ行ったんでしょう?」
ファリスと後続で扉をくぐったレミオンも、部屋に人の気配が無い様子に老賢者の不在を認める。
「それこそ刑場かもしれませんね」
ファリスの言葉にレミオンが無言で視線を伏せる。
時刻からしてもう無実の男の首が跳ねられ終わっている頃だ。
そう思うと同時に先刻アルディナに聞いた話を思い出し、繊細な少年はまた心と胸を痛ませた。
「待ってて下さいね姫、ちょっと門番に聞いてきます」
戸口に立ったままのレミオンの横をすり抜け、緋色のマントを翻しファリスが素早く部屋をでてゆく。
「待ってれば、そのうち戻るでしょ」
言って、王女は適当な本を探して手に取り、手近な椅子に腰を落ち着け、さっそくページを捲り始めた。
「アルディナ姫」
まるで気配も無く彼はそこに立っていた。
その声に虚をつかれ、レミオンは弾かれた様に、アルディナの椅子の背後に立つ青年を見た。
「──セルティス様!?」
「セルティス」
王女は特に驚かず背後を振りかえる。
艶やかな黒髪に鋭い三白眼の青灰色の瞳、冷たい程整った顔立ちをした、長身だが大柄と言うより無駄の無い体つきをした20代半ばの黒衣の青年がそこに立っていた。
レミオンの心臓は冷やりとした。いつの間に自分の横をすり抜けて部屋に入ったのか、それとも元々部屋に居たのか?紙が日焼けしない様に書庫の窓は中央以外カーテンが閉められ、本棚の影はほとんど真っ暗だったから見過ごしてもおかしくない。
ただ、気配が全くしなかった事に驚いていた。
もしこれが城に侵入した刺客だったら王女は殺されていただろう。
「珍しいわね、貴方が書庫に来るなんて」
「そうかな?」
青年は笑って、アルディナの向いの椅子に腰を降ろした。
「これでも一応貴方の警護を預かる身、嫌いな本満載の部屋でも貴方がそこに居れば来ますとも」
「そう言えばそうだったわね」
セルティスの言葉に王女が済まして答える。
警護と言ってもセルティスはアルディナが城から外出する時は必ず共にいたが、城中ではむしろ側にいる事の方が少なかった──その事実をつっこまないのも不気味なら、王女がなぜこんな平然としていられるのかもレミオンには理解できなかった。
「いつの間にそこに?」
動揺した胸を押さえ、レミオンがやっとの思いでそう問いかけると、セルティスは口元を歪めて、
「そっちこそ戸口でぼーっと何を考えていたんだ? 未来の宰相殿。それではとても警護の職は勤まらないな」
辛辣な口調で言った。
「実際レミオンは考え事が多過ぎね。さっきも廊下を歩いている時ぼーっとしていたし」
セルティスのその言葉に心からアルディナも同意する。
セルティスは王女の警護でもあり、四歳の時よりアルディナを教えている専属の剣術教師でもあった。この師匠と弟子は辛辣なところが似てるせいかよく気があって、特にレミオンに嫌味をいう時の息はぴったりだった。
もう知り合って二年以上になるが、今だにこの自分より以前から王女に仕えている異国出身の剣術教師にレミオンは馴染めなかった。
何よりセルティスが王女に取り立てられた経緯を父から聞いていたので、余計彼に気が許す事が出来ない──レミオンが警戒するのもセルティスの経歴を思うと当然だった。元々彼はアスリー王国の国境を荒らす山賊のしかも頭領で、それが5年前、第7大臣が編成した大掛かりな山賊討伐部隊に捉えられ、王と王女の前に引き立てられる事になったのだ。
「ほお、この男が」
身体中を覆う傷口も開いたまま、半死半生の身で鎖で縛られ玉間の床に転がされたセルティスのマントは、討伐隊の兵の返り血がべっとりとこびりついていた。
「誠に恐ろしい男です。禍々しいまでの人殺しの剣で、この男たった一人の手にかかり尊い兵士が数百人以上殺されました」
第7大臣は討伐部隊のアスリー兵の犠牲者が多かった事への弁明か、殊更に沈痛な面持ちで王に報告した。
幼い双子の姫を膝に乗せ、王はむしろ楽しそうにその言葉を聞いた。
「数百人か、それは凄い──では第7大臣、せめてもの返礼に、盛大にこの男を処刑してやろうではないか」
自決を防ぐ為、猿ぐつわを噛まされていたセルティスには、そんな王の言葉に抗議する術もない。
「かしこまりました、速やかに処刑の準備を取り行います」
第7大臣が王の言葉を受け、深々と頭を垂れ、処刑の段取りの為に引き下がりかけた瞬間、
「勿体無いわ!」
突如、王の膝に乗っていた小さな姫が叫んだ。
「ほお、アルディナよ、何が勿体ないのだ?」
「だって数百人も一人で殺したのでしょう?物凄く強いのでしょう?」
「そうだが、姫よ、この者は無法を尽くした罪人なのだぞ?」
思いがけない娘の言葉に当惑する父王の顔を見上げて、右膝に乗るわずか四歳にしかならない姫君は大きな瞳をいっぱいに見開いて懇願した。
「殺すぐらいなら私に下さらない? 父様」
「幾ら可愛い姫の頼みでも、それは……」
言い淀む父王に対しさらに幼い姫は熱心に言いつのる。
「お願い父様、私この者に剣術を習いたいの!」
「剣術ならレーベルがいるではないか姫よ」
「私が習いたいのは、本当に強い剣なの」
幾ら年端もいかない幼い姫の言葉でもこの国の最強の剣術家レーベルが聞いたらさぞや誇りを傷つけられたことだろう。
「一の姫よ。レーベルの剣だって充分強いぞ、それに何より、姫は女ではないか?剣を握る必要はないし、強くなる必要もない。この父や国の兵士が盾となって姫を守るから剣などは習わずとも大丈夫だ」
「でも、その兵士が彼の剣の前では赤子の様だったのでしょう?」
山に囲まれた地形からアスリーは他国から攻められにくく、大陸の覇権争いや戦争からもここ100年ばかり遠ざかっていた。おかげで戦場を知らないこの国の軍隊は平和ボケし、使われている剣術も型と形式にばかり縛られ、本当の意味での実践的な剣とは呼べない代物になっていた。
そうでなければこの男が幾ら強くても、精鋭を集めたという討伐兵が一人相手に数百人も殺される訳は無い。
その事実を幼い姫は指摘しているのだ。
「それはそうだが」
王はすっかり弱り果てていた。この大柄で何者をも恐れぬ豪胆な王も可愛い愛娘の前では滅法弱かった。
「父様、たとえ必要が無くても、私はどうしてもこの者に剣を習いたいの!もう、宝石もドレスも欲しがらない──だから、お願い──この者を私に頂戴──ねぇ父様、一生のお願い──」
最愛の幼い姫につぶらな瞳でじっと見上げられ、ここまで熱心にせがまれては、最早、王が抗える訳もない。
「お父様、姉様のお願い聞いてあげて」
見れば姉に同調して、左膝に乗るセリフェもじっと涙目で自分の顔を見上げている。
「分った。分った姫よ。与えよう。姫がそんなの望むなら」
王は渋々姫の願いを承諾した。
相手は山賊の頭領──しかもアスリー兵を一人で数百名も切り殺し、第7大臣にその剣術を持ってして『禍々しいまでの人殺しの剣』と言わしめた恐ろしい男である。その男を可愛い姫の剣術教師にするなどと、幾ら本人のたっての願いとは言えとても認められる様な事ではなかった。
それでも言ったからには言葉を引っ込めないのがこの王の長所でもあり短所でもあった。
それに無邪気でなんでも欲しがる二の姫と違い、物静かな一の姫がこんなに何かを欲しがるのは目ずらしい。その事を思えば余計与えぬ訳にはいかなかった。
セルティスは意識朦朧としながらも床から王と王女のやり取りの一部始終を聞いていた。
そうして、あばらと肋骨が折れ、刺さった矢の傷も癒えずにどの道死を待つだけだった彼は、まるで動物を欲しがる様に王女に望まれ、死刑から反転し、宮廷付の医師により手厚く治療を受ける事となった。
傷が癒えてもしばらくは、危険だという事で両手両足を鎖で戒められての生活だったが、それもやがて「これでは剣が教えてもらえない」という王女の言葉で解かれる事となった。
初めて鎖が外された日、セルティスは幼い姫に訊いた。
「小さな姫君、私が怖くないのか?」
勿論二人の近くには取り囲む様に姫を守る警護の者がズラリ並んでいる。
怖い者知らずの子供だと思ってたのに──
「怖いわ」
王女の口から出たのは意外な一言だった。
「ではなぜ?」
セルティスは幼い姫になおも問いかける。
「怖い人は敵より味方にするべきだと、カリーナ女王の本に書いてあったわ」
「カリーナ女王?」
「今から五代前この国を治め、アスリーの黄金時代を築いた伝説の女王よ。彼女は良く知を学び、自ら剣を振るったのですって」
セルティスは改めて驚嘆した。玉間での王とのやり取りといい、どのセリフをとってもわずか四歳の少女の口から吐かれる言葉とは到底思えない。この年頃でこのレベルの知性を示す子供の例を彼は見た事が無い、まるで奇跡を見ている様な心持ちだった。
「私に貴方の剣を教えてくれる?そうしてくれたら私は貴方の生活と安全を守るわ」
セルティスは幼い姫の言葉に皮肉な笑みを禁じえなかった。
(私を守るというのか?こんな乳ばなれしたばかりの子供が)
何よりこんな子供に守られなければ生きる術もない自分がおかしくて彼は笑った。
笑いながらセルティスは遠い目で思った──とうに主君を失った身だ──仲間と共に国を追われ、この国に流れ、山賊に成り下がった。その仲間をも討伐隊により全滅させられた今、自分を縛る物はこの身体一つのみ。
「いいだろう。どの道拾った命だ──好きに使うといい──」
セルティスは、王女に救われた命なら王女にくれてやろう、そう思った。
彼はその場で王女の前に膝間づき、生涯の忠誠を誓った。
飼い犬の様に大人しく王女につき従うセルティスの姿を見て、一番驚いたのは誰あろう彼の恐ろしさを一番知る第7大臣だった。ある時彼は関心して王女に言った。
「姫はまるで猛獣使いでございます」
以来4年半アルディナは毎朝欠かさず、早朝はセルティスの指導の元、剣術の稽古をするのが日課となっていた。
あの日、剣の公開試合でファリスに負かされ城の中庭で泣いてた時、レミオンに情けないと言った姫は自分もセルティスに剣技を習い始めたばかりの頃だった。
稽古は人目につかない城内の締め切られた場所でやるのが常で、その剣の腕前はセルティスと本人以外誰も知らなかった。レミオンも王女が剣の稽古をしている間だけは側を外され、一度として彼女が剣を持つ姿を見た事が無い。
何よりあの細腕と可憐な姿で、姫が剣を振るう姿など想像もつかなかった。
実際レミオンがレーベルに剣を習う意義も、かつての父に「認められたい」「喜ばせたい」という意思から、今や「王女の身を守りたい」というのが一番の動機になっていた。
王の前でセルティスの為に誓いを立てて以来、アルディナは本当に宝石もドレスも自分から欲しがる事はなかった。もっとも欲しがらなくても充分に与えられていたのだが、その態度は、腐る程物を持っていても暇さえあれば何かをねだる妹のセリフェリスと比べれば禁欲的にさえ見えた。
先日、閲見の間で、異国の男が見事な大粒な七つの宝石を見せた時も、姫は父王のように宝石に目をくらませたりはしなかった。
それよりも彼女が見ていたのは、異国の男が連れているその息子だった。簡素な服を着ていても全身から匂い立つ高貴さと美貌。隠しようもない品を備えた少年を王女は不思議な気持ちで見つめていた──少年の紫水晶の様な美しい瞳が王女を見返し、二人の視線が交わり、時を忘れる様な一瞬──事は決していた。
バラバラと兵士が玉間へ入って来た。
「──?」
王女は咄嗟に何が起こったか分らなかった。恥じ知らずな父が、一国の長である筈の父が──まさかたかが宝石を手に入れるが為に、ありもしない罪を着せて無実の男を捕らえるとは──。
父親と共に引き連れられてゆく少年の目が、王や大臣や自分を睨んでいた。
アルディナは恥辱でかっと身の内の血が沸き立つ様だった。
軽蔑と憎悪。
あんな視線を自分が受けなくてはいけないなんて──。
だが王女は少年や父親の釈放ではなく、王に大臣達に七粒の宝石を分ける様に進言した。
王の無法ぶりや悪行はこれに限らず今までずっと行われて来た事だ。今更一つを正したところでどうしようもないだろう。それに人徳を持たぬ父王には、恐怖で治める今のやり方は良くも無いが悪くも無かった。大臣達が父に叛旗を翻す事がもないのも、それがたとえ「疑い」であったとしても、父が容赦なくその芽を摘むことが分っていたからだ。
そう──ギルシュ王の長所は「躊躇しない」という事だ。
奇跡的な事だがアルディナには、2歳の時の記憶がある。
2歳の時、姫は乳母に頼んで、寝ている妹を置いて一人で父王の居る玉間へと連れて来て貰った事があった。
玉間につくと 乳母に下ろしてもらい、床に降り立った姫は、よちよちと玉座へ続く緋の絨毯を辿った。
目指す父王は玉座から降り立ち、一人の男に相対していた。
「父様」
アルディナが両手を前に突き出して、小さな足で父親の元へとかけよろうとした瞬間。
王が大剣をスラリ抜いて、それを振り上げた。
次の瞬間、どさっ──と、姫の目の前に何かが落ちて来た。
「?」
進行を妨げられ、幼い姫は首をかしげてその物体を見た。
それは胴体から切り離されて飛んできた男の生首だった。胴体を離れても、その唇は何かを訴える様に痙攣していた。
中年の男で、びっくりした様に目を見開いている。
アルディナは父王に駆け寄る事も忘れて、その生首と見つめ合った。
落下する時に噴出していた血が王女の身にも降りかかって、髪やドレスに赤い斑点の模様を造っていた。
あわてて乳母が駆け寄り、血まみれの王女を抱きかかえた。
アルディナは9歳になった今でもその時の光景を不思議なぐらいよく覚えている──そして、それがアルディナの持つ、一番古くて強烈な記憶となった──
その思い出が発端か、はたまた幼い頃乳母が読み聞かせてくれた、剣を握る賢女王の伝記『カリーナ伝』の影響か、幼い頃からアルディナには自分の身を自分で守られねばという本能的な意識があった。
『カリーナ伝』にはこう書かれていた。
「剣術よりも知力と判断力で自分の身の安全を守る事の方がより重要である」
アルディナは勿論純粋に本が好きだった。それとは別の次元で、自分の身を知識で守りたかった。
そうで無ければ、自分も床に転がる首になってしまうかもしれないのだから。
勿論、刈り取るのは父王ではない。父王の娘達への盲愛はアルディナにも分っていた。
だが敵はどこにいるかわからず、どこから現れるか分らない。
賢女王カリーナも権力を持った貴族や様々な敵に悩まされた。カリーナを廃し、弟のアルベルトを立てようとする今は滅んだルキウス家、その後に起こった山間に住む騎馬民族の進行。ルキウス家が滅んだ後には宮廷内の宰相派がカリーナを悩ませた。山も隔てた隣国も不穏な動きを始めて、内にも外にも敵があり、一つの敵を滅ぼせば別の敵が現れてくる。
平和な時代はなかなか続かない物である。確かにここ100年奇跡的にアスリーは平和な時代を謳歌している。貴族制は廃され、王一人の絶大な権力とそれを支える七人の大臣に安定して治められる国になっている。
だが、歴史書を特に好むアルディナには分っていた。今の時代が特別で、戦いの続いている時代こそ当然の世である事を、だから王者になるべき彼女は本を読み、知を漁った。
いかなる敵からも自分の身とこの美しいアスリー国を守る為に──
今、アルディナの手の内にあるのも王女が好んで読む歴史書の一つであった。アスリーの建国時代を書いた書物だ。そこに書かれている自然の山による防護壁に守られた攻められにくく守りやすい土地を好んで住みついた民族の血は、今も誇り高く閉鎖的なアスリー市民の気質に受け継がれている。
戸口の壁にもたれたまま、レミオンは静かに読書をするアルディナの姿とそれに向い合うセルティスの姿を眺めていた。
今では同じ様に王女に仕えている自分とセルティスだが、片方は望まれ、片方は単なる成り行きでそうなったのだ。過程は大きく違っていた。
ファリスだってそうだ。姫はファリスと対等に口を聞き、時に意見を求める。だが自分には謎かけの様に問うだけで決して意見を求めた事がない。
頼りなく脆弱な少年。二年半仕えていても、王女に認められない自分をレミオンは恥じていた。
姫に認められ、ぜひと望まれる存在になりたい。姫に頼られ、支えられる有能な宰相になりたい。
今のレミオンの一番の望みも興味もアルディナに認められる事、ただその一点のみだった。その為にはもっと多くの事を学び、自分を鍛え、高めななければと、焦燥感にも似た思いで常にレミオンは考えていた──
ファリスが書庫に戻って来た時、レミオンは例によって物思いに耽り、アルディナは読書、セルティスは椅子に座り自分の剣を布で磨いていた。
城中で元山賊が帯剣を認められていると言う事は驚きだが、その名目の為にアルディナは自分の剣術教師だけではなく警護という任もセルティスに与えたのだ。
「どうも、セルティス殿」
「やぁファリス殿」
まずセルティスと挨拶を交わしてからファリスはアルディナに向き直り、訊いて来た事を報告をした。
「アルディナ姫、やはり、ルペス老は外出している様です。門兵に訊いたところ、処刑を見に行くと言って出たそうです」
「そう、ありがとうファリス」
アルディナはファリスに礼を言った。
「そういえば今日は公開処刑が行われているんでしたね」
セルティスが目を細め呟いた。
「セルティスも見たかった?」
「まさか」
セルティスは即答した。
王女がいなければ自分も四年半前に断頭台の露となって消えていた身である──「盛大に」という王の言葉通り、華々しく演出されいい見世物になっていただろう。
いわば、
その男の運命は自身も辿る道筋だった──その事を思うと彼の心境は複雑だった。
「そろそろ皆が、刑場から帰って来る頃ね」
言うと、アルディナはおもむろに椅子から立ち上がった。
「アルディナ様どこへ?」
少しはっとして、レミオンがアルディナを見る。
「ルペスもいないし、お茶でも飲みながら庭園で本を読むわ」
いつもなら閉め切られた書庫に何時間でも篭って本を読んでいられるアルディナだったが、今日はなんだか気が滅入った。
何より今日は天気が良く、春先で花盛りの庭園を見ながら、お気に入りの東屋で本を読むのは気持ち良さそうだった。
アルディナ、セルティス、ファリス、レミオンの順に庭園に出ると、まさに春の花盛りの庭の中央では舞台が設置され、劇の準備が始められている真っ最中だった。
「何やら始まるみたいだな」
興味深そうに見つめるセルティスにファリスが説明する。
「先ほどルーファースと擦れ違った折、劇のまね事の為にセリフェ王女に呼ばれていると言ってたので多分それの準備でしょう」
「なる程」
王女はまっすぐ庭園の西側にある小高い場所に建つ東屋まで歩いてゆくと、ベンチに腰を下ろした。
見晴らしのいいその場所は王女の特等席だった。
王女の横にレミオン、向かいにファリスとセルティスが並んだ。
高台のその場所からは庭園の中央の舞台もよく見えた。
「しかし主役はまだ刑場ではないのか?」
主役というのは勿論アルディナの双子の妹、セリフェリスの事である。
「その刑場から帰って来てすぐ劇を始められる様に準備してるのでしょう」
そんなセルティスとファリスの会話を無関心に聞ききながら、アルディナさっそく本を開き、ページを捲り始めた。
レミオンも無言で舞台の方を見つめている。
既に白い騎士の衣装に着替えたルーファースが舞台の中央で、渡されたばかりの脚本に真剣な顔で見入っている。
そこへ、刑場帰りのセリフェリスの一行が戻って来た。
いよいよ劇の開始ムードだ。
「今日の劇はなんでしょうね」
楽しそうに言うファリスに対し、
「どうせ恋愛劇でしょ」
どうでも良さそうにアルディナが呟いた。
その言葉通り、始まったのは古典的な、身分違いの恋人同士の恋物語だった。
どうやらルーファースはセリフェの恋人役らしい。
アルディナは本を読みながらたまにチラリとそちらを見た。見たというより、まっすぐ正面に舞台があったので、丁度顔を上げると目に入ってしまうのである。
脚本を読み上げたばかりですぐに本番に入らされたルーファースは、セリフがあまり憶えられていなかった。ゆえにほとんどアドリブでしゃべっていた。
それでも他の人間のセリフから大体自分が言うべきセリフが分ったので劇はスムーズに進行して行った。
その流れで、桃色の衣装に身を包んだセリフェ姫が愛らしく自分に、
「愛してます」
といえば、
ルーファースも当然、
「私も愛してます」
とセリフを言う事になった。
「嬉しい」
そうして、姫が自分に身を預け、
「口付けをしてくださいますか?」
と、問えば、するべき事もただ一つだった。
本当はそんなセリフは脚本にはなく、二人は無言で口付けを交わすのだが、ルーファースが口付けして来ないので、セリフェが催促する為に言ったのである。
ルーファースは躊躇した。
彼は先刻から気ずいていた。書庫にいる筈のアナベルディナ王女がなぜか庭園のしかも舞台がよく見えるすぐ近くの東屋にいる事を──
自分が崇拝する姫の前で、双子とは言え別の少女に口付けしなくてはいけないなんて──純粋なルーファースは耐えがたかった──だが彼に拒否権は無かった。
なかなか口付けをしてこないルーフェースに業を煮やして、首に腕を回し、とうとうセリフェが強引に顔を近ずけてきた。
──二人の唇が重ねられた瞬間、周りから拍手喝さい起こった。
「セリフェもよくやるわね」
アルディナは呆れた目で舞台の二人を見やった。
「随分過激な劇だな」
「でも熱演ですね。セリフェ姫は」
セルティスは嘲笑する様な目付きで、ファリスは関心した顔で舞台を見つめている。
レミオンだけがルーファースの心中を察して、苦い思いでその場面を見つめていた。
結局、日が落ちて、夜になっても老賢者は城へ戻らなかった。
「ルペスったら何してるのかしら」
夕食を終えて室に戻ったアルディナは、嘆息しながら天蓋つきのベットの身を沈めた。
今までも街に出る事はあったが、夜になる前に必ずルペスは戻ってきていた。
今夜は気になってアルディナはあまり食が進まなかった。
見れば一緒に部屋に入ってきたレミオンも冴えない顔をしている。 彼の場合理由は老賢者の事では無さそうだった。
「こっちへ来てよ、レミオン」
王女に言われるままレミオンが戸口から歩いてくる。ベットの脇まで来ると、起き上がった王女がレミオンの手を引いてベッドへ座らせた。
「まだ処刑された男の事を気にしてるの?」
アルディナはレミオンの肩に手を置くと、その表情を間近から観察した。
「そんな事ないです」
レミオンは瞳を伏せた。確かに処刑の事もあったが、劇の後に見たルーファースの悲壮な顔も彼の心を沈ませていた。
「違うなら何? じゃあ何を考えているの?」
アルディナは心を探る様にレミオンの繊細そうな空色の瞳を除きこんだ。それからふっと笑って、
「わかった──ひょっとして、劇で見たキスシーンの事を考えているの?」
からかう様に言った。
「そんな事は──」
当たらずも遠からずのその言葉に反応して、レミオンはかっと頬を赤らめた。
「図星?──レミオンもキスしてみたい?」
アルディナは言うと、いたずらっぽい目でレミオンの方へ顔を近ずけて来た。
「姫様」
動悸で息が詰まり、レミオンの目線は王女の小さな薄紅の唇に釘付けになった。
唇と唇が触れそうな手前で、クスっと笑って、アルディナが顔を離す。
「なんてね」
「からかわないで下さい」
「期待した?」
レミオンはいじけて顔を伏せる。
その瞬間を狙って、不意をつくようにアルディナはレミオンの頬にチュっとキスをした。
「姫…」
真っ赤な顔でレミオンが驚いてアルディナを見る。
「やっぱり唇がいい?」
そうして再度、魅惑的な青い瞳でレミオンの瞳を覗きこみながら、アルディナがゆっくり顔を寄せて来た。
今度もまたからかってるのに違いないのに──
呼吸も忘れ、レミオンは近ずいてくるアルディナの瞳を吸い込まれる様に見入った──鼻先が触れるほど顔が近ずき、王女が瞳を閉じ、顔を傾けた瞬間──
ドンドンと、二人を邪魔する様に部屋の扉が激しく叩かれた。
「こんな夜中に何?」
無粋な音にアルディナが眉をひそませ、振り返る──扉の向こうから、衛兵の叫ぶ声がした。
「大変です。姫様、第四大臣の家が賊に襲われて──」
「なんですって?」
その言葉にアルディナは愕然とした。
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